ここでは阪神が85年の優勝以来一度だけ輝いていた1992年に
活躍した選手を取り扱ったコーナーです。
ただし筆者が当時小学6年だったため記憶に曖昧な部分があります。
一部に間違った情報がすりこまれている可能性がありますのでご注意下さい。
91年わずか46勝で最下位。
チームは衰え著しい真弓、岡田、木戸、中西などに頼っている状態。
和田、八木など生え抜き中堅選手が台頭してきたものの
斎藤、桑田、,槙原の3本柱で50勝計算できる巨人や
古田、広沢、ハウエル、池山が全盛時のヤクルトに比べると明らかに厳しい。
優良外国人オマリーに加え前年大洋(現横浜ベイスターズ)を解雇された
パチョレックを獲得しクリーンナップのめどはたったものの
シーズン開始前はBクラスが濃厚な状態だった。
しかし、いざ始まってみると新人の久慈そして亀山、新庄が大活躍。
さらに仲田、湯舟、野田、中込の4人が防御率2点台の安定ぶり
そこに猪俣を加えたローテーションで抑えの田村につなぐ勝ちパターンを確立。
貧打の巨人を差し置いてヤクルトと最後まで優勝争いをした手腕は評価されるべきも
の。
しかし田村の故障で湯舟が抑えに転向し踏ん張りどころの先発のはずが
仲田、猪俣も持病の四球病を連発。左腕総崩れで終盤まさかの大失速。
残り15試合くらいの時点で3ゲーム差の首位だったもののあっさりヤクルトに追いぬ
かれた挙句
気がついてみれば巨人にまで同率2位まで追いつかれた。
誰もが阪神優勝と思っていた残り10試合くらいの時期に
ニュースステーションでヤクルト優勝と言い切っていた江川卓が
今でもやたらと印象に残っています。
そんなわけで地味だった中村監督には特に印象に残るエピソードはありません。
92年の阪神を優勝争いに導いたエース。
左腕から落差の大きい変化球を投げ,かつ速球も冴える阪神には稀な
三振を奪えるピッチャーだった。
ただ四球が多く崩れることも多く安心感は少なかった。
このとし最多脱三振のタイトル獲得。
92年の強力投手陣の中でも特に安定していたのが湯舟。
この年にベテラン木戸とのバッテリーでノーヒットノーランも達成している。
抜群ではなかったが仲田、猪俣との左腕トリオの中ではコントロールもそこそこで
個人的には一番安心感があったように思う。
またニヤニヤしながら投げる姿は当時話題になった。
重さのあるストレートとナチュラルにスライドする「まっスラ」を武器に活躍し
た
阪神には珍しい剛球投手。
春先にたしか8回途中までノーヒットノーランという試合をしたことがあったような
・・・
いいピッチャーなんだけど当時は地味だったかも。
人間性にも魅力があるらしく新聞や雑誌での人気は高かったように思います。
野田といえば松永とのトレードでオリックスに移籍後奪三振の日本記録を更新す
るなど
素晴らしい活躍をしたことが有名ですよね。
しかも交換要因の松永が全然打たんし1年でFAで去っていくわ最悪。
阪神ファン伝説の嫌われ者となったため移籍後のほうがなにかとエピソードが多い。
ちょっとだけ松永を弁護すると神宮球場で3試合連続先頭打者ホームランを打ちまし
たが
これは日本はおろか大リーグにも達成者がいない偉大な記録だそうです。
本題の野田は夏場まさかの7連敗で優勝戦線脱落寸前のチームを
完封で立ち直らせた功績が非常に大きいものの
肝心のペナント終盤で打ちこまれるケースが増え多分これがトレードの要因になった
んでしょう。
確かにV逸の戦犯探しをするなら名前はあがると思いますが・・・
その後の活躍を考えるとねえ・・・
入団後数年間一本もヒットが打てず話題になったこともある投手。
本職のピッチングでは緩い変化球と荒れ球でタイミングをはずす打てそうで打てない
投球術が
マニアックなファンのハートをつかんだ。
個人的には四球連発で安心感がないのであんまり・・・。
先発したとき今日は勝てるぞという期待を抱かせてはくれませんでした。
なんかよく分からんうちに勝ってるところが魅力なんだろうけど・・・
難攻不落の守護神として幾度の勝利を導いた抑え投手。
左横手投げと言う変則フォームからクロスファイヤーボールと呼ばれた
魔球に近い球を投げ、最終回を3者連続三振で締めるというシーンを何度も見せてく
れた。
しかしその投げ方からか故障がちで優勝争いの真っ只中に故障発生。
V逸の原因の一つになってしまう。
その後も故障→手術を繰り返しながらそれを乗り越え不死鳥のごとく何度も復活する
が
メスを入れるたびに球のキレは衰えていきこの年同様の活躍はできなかった。
個人的に好きな選手だったので残念な気持ちが大きい選手。
堅実な守備と芸術的流し打ちで非力な選手が
どのようにプロで生き残っていくのかのお手本のような選手。
下位打線で作った数少ないチャンスを物にする勝負強いバッティングも最高。
個人的に大好きでした。
好きすぎて中学時代はこの和田のキーホルダーをカバンにつけて登校してました。
これからも指導者として阪神のためにがんばってください。
92年阪神の躍進の原動力となったスター選手。
バットを寝かせるバッティングフォームが大好きでした。
また内野ゴロで一塁にヘッドスライディングを敢行するなどガッツ溢れるプレーは
多くのファンの共感を呼んだ。
打っても打たなくても絵になる、何かを期待してしまう。
華があるというか本当に類稀なスター性をもった選手でした。
今のところ阪神最後の優良外国人選手。
左打者で本拠地が甲子園だったことからホームランは20本前後だったが
毎年3割以上の打率を残し、なおかつ得点圏打率は4割近いという、まさに打線の核
という選手。
92年は3番打者としてチームを引っ張った。
翌93年には首位打者のタイトルを獲得。
これ以後阪神に打撃3部門のタイトルホルダーはいない。
阪神退団後はヤクルトに移籍し大活躍。
現在はアメリカ独立リーグで後身の育成に努めている。
92年阪神打線の4番打者。
大洋から移籍1年目にして大活躍。
特に前半戦は打ちまくり前年最下位のチームを活気付けた功績は大きい。
しかし後半はやや失速気味。
ヤクルトの優勝が決まった試合で5−1(多分。記憶が曖昧。)で迎えた最終回に
ソロホームランを打ち一矢を報いたシーンが印象深い。
オマリーと違い活躍したのはこの年だけだったのが残念。
郭李の入団により外国人枠(当時は投手、野手の区別なく2人まで)から外れ、その
まま退団。
残した功績の大きさの割にあまり語られることのない地味外国人だったかもしれな
い。
近年代打の神様として大活躍のこの人も
90年代前半はコンスタントに20HRを打てる和製大砲としてスタメン出場。
打率はもひとつだったものの勝負どころの打撃は当時からさすがという感じ。
前年までのレギュラーだった岡田、真弓、平田らだ次々とポディションを奪われる中
スタメンの座を守り通したのは立派。
ヤクルト戦での幻のサヨナラホームラン(エンタイトル2ベース)が特に印象深い。
近年の阪神ファンの人気を独占したスター選手。
亀山と共にこの年から1軍に定着し亀新ブームと呼ばれる社会現象(関西限定)にな
る。
入団時のショートからセンターへのコンバートが成功。
守備範囲の広さと強肩は西武秋山、ヤクルト飯田などにも匹敵し
ゴールデングラブ賞を何度も受賞している。
92年ペナント中盤の優勝争い真っ只中の広島戦で
9回表の大ピンチをスーパキャッチで脱出するとその裏
当時全盛時代の大野(多分)からサヨナラホームランを打ったシーンは
阪神と新庄の勢いを象徴するシーンだった。
91年ドラフト2位で阪神入団。
92年がルーキーシーズンだったものの開幕戦からスタメン出場。
1年間レギュラーを守り通した。
ただしバッティングが・・・
それでもいつかの試合で解説者が
「一本のタイムリーヒットと一回のタイムリーを防ぐ守備は同じ貢献度」
といっていたのに妙に納得。
地味ながらもかかせない戦力でした。
92年頭角をあらわしてきた若手捕手。
数年間正捕手を守り続けた木戸からスタメンマスクを奪った期待の星。
しかし守り、肩ともに個人的には「?」の選手でした。
特にバッティングは期待できるものでなく久慈からの下位打線は点が入る気がしな
かった。
でも人気はありましたね。
80年代後半から阪神の正捕手を勤めた選手。
バッティングは非力なものの守りの確かさから92年も山田と出番を分け合う。
そして湯舟とのバッテリーで対広島戦ノーヒットノーランを達成。
その後も湯舟先発の試合は必ずマスクをかぶりました。
日本のプロ野球の最長試合時間記録はこの92年に阪神が対ヤクルト戦で記録し
ました。
すでに優勝争いは加熱し天王山だったこのカードで同点の9回裏八木がサヨナラホー
ムランを放った・・・はずでした。
しかしその打球が一度フェンスにあたってからスタンドに入ったということになって
エンタイトル2ベース扱いになってしまうのです。
中村監督の20分以上の抗議の後試合は結局延長へ。
そして延長15回裏すでに負けがなくなった阪神の攻撃で2アウト満塁の場面。
そこで代打に現れたのがこの立花。
結果は三振。
要所を締めれない阪神を象徴するようなシーンだった。
地味な場面での代打が主な出番だった立花だけにこの悪い印象だけがやたらと残って
ます。